『茶道宗和流』
茶道の起源
喫茶の起源は支那に於ては遠く漢代に始まり、唐に至つてその隆盛を極めた。我が国に於ては、史実の伝える所によれば、人皇廿九代欽明天皇の十三年、百済聖明王より我が朝に釈迦仏像及経巻を献じ、僧九人も亦同時に来朝した事があり、その際内裏に於て茶を賜はつた事がある。之が喫茶の史実に現はれた創始であらう。次で聖武天皇の天平元年に内裏に於て行茶の式が行はれ、更に嵯峨天皇弘仁元年に挽茶の茶会があり、同六年に至つて近江、丹波、播磨の国々に茶を植ゑて之を献ぜしめた。又同天皇が滋賀唐崎に行幸の砌崇福寺の永忠大僧都が茶を煎じて之を天皇に奉つた。其後三百数十年を経て、京都建仁寺の開山栄西禅師は建久二年宋より帰朝の際、茶の実を持ち帰つて筑前国脊振山に植ゑられた。禅師は又茶を献じて将軍実朝の不快を治し、喫茶養生記を著はし茶の普及に寄与する所が多かつたが、たまたま京都栂尾の明恵上人に茶を贈つた。上人は之を栂尾山中に試植し、之が大いに蕃殖して之より漸く世に拡まるに至つた。
その後、鎌倉の末より世の風儀大いに乱れ、博奕が至る処に行はれ、此の賭事が喫茶に侵入して、闘茶の悪風が盛んになつた。世上心ある者は之を患ひ、やがて茶礼を要求する声が昂まつて来た。折しも文学の俳諧、絵画の北宗、建築の書院造り、演劇に於ける能楽その他香道、華道等所謂日本趣味の結実すべき時代に際会し、他面武家典礼の創定に刺戟され喫茶に礼法を設けんとする機運が熟して来た。
ここに将軍家の宝蔵係の能阿弥、芸阿弥、相阿弥、観阿弥、音阿弥、伝阿弥等所謂六阿弥の豪宕華麗な書院式茶と南都称名寺の僧珠光の幽雅清寂な草庵式侘び茶とが東山義政公を中心として樹立された。装飾を主とした能阿弥等の書院式茶は空海、道陳を経て利休に伝はり、禅規に基いた珠光の草庵式茶は宗悟、宗陳、紹鴎を経て同じく利休に伝はり、利休は此の二流の茶礼を帰一して今日の茶道を大成した。利休の死後は京阪の茶界は一時は寂寞の感を免れなかつたが、古田織部、織田有楽、蒲生氏郷、細川三斎、瀬田掃部、芝山監物、高山右近の如き所謂利休の七哲が其の茶風を継承し、時代は桃山より徳川に流れつゝ隆盛を極めた。江戸に於ては小堀遠州、京阪に於ては利休の孫、千宗旦に依り代表され一方は大名流の豪華を愛し、一方は草庵式を旨とした民衆茶とも云ふべき色彩を帯び東西別様の発達をなした。
宗和流の起源
金森家の祖先金森長近は清和源氏の流れ、近江国金森村の出身なるを以て姓を金森と称し、幼にして信長に仕へ五郎八可近と云つて居たが、後信長より長の一字を賜はり長近と改め、長門守或は兵部大輔と称し後剃髪して兵部卿素玄法印と名告つた。天正十三年八月飛騨の城主となり、天正十八年より築城の工を興し、其後十六ヶ年の長年月を費して遂に慶長十年やうやく城の完成を見た。茶道を千利休に学び、一部では利休七哲の内に入れられて居る。信長横死の後豊臣秀吉に仕へ後徳川家康に仕へ慶長十二年八十四才にて歿した。
其嫡子を出雲守可重と云ひ三万八千石を領し、後軍功に依り加増され六万石を領した。可重は実は濃州長屋将監の子で長近の養子となつたもので、茶道を千道安に受け元和元年閏六月三日五十八才を以て歿した。
流祖宗和は可重の嫡男として天正十八年八月飛騨高山城に生れ重近と云ひ、飛騨に在る頃父可重より茶道に入つた。彼は金森家の三代として当然其家を嗣ぐべき身であつたが故あつて家督を異母弟の次男重頼に譲り、一時山代国宇治に身を匿し後京都に隠棲し法躰に装うて宗和と号し、専ら茶道に親しみ其の神髄を得て一家の風を成し、ここに宗和流を起した。
宗和流は以上の如く一国の城主となる可きであつた宗和が心を塵外に移し、孤高不羈床しい武将の魂を以て習練した流儀である。又小堀遠州、片桐石州と同じく公卿門跡の人々に最も接近し、其等の間に見られる伝統的教養と嗜好が加味され、また清麗と端正の感情を含み、高雅な気品を伝へている。斯うして慈胤法親王に伝へられた宗和流が公家の間に普及され御所流と称せられたのも尤ものことであらう。
加賀と宗和流
加賀二代藩主利長侯は英明な藩主であつただけに、其一面に於て常に余裕綽々たるものがあつた。侯は茶の湯を千利休に師事され細川忠興と其名を齊しくせられた程の数寄者であつた。又家臣に高山南坊、中川宗伴の如き茶人大名のあつた事も有名である。
三代利常侯は常に茶事を好まれ小堀遠州、金森宗和、片桐石州等を招き斯道の論談を交へ或は茶式を演じ、随つて夫等什器をも非常に賞玩せられた。殊に代は戦国時代直後で幕府は常に警戒を怠らず、或は何等か異図を抱くのではないかとの嫌疑を蒙り、其嫌疑より遠ざかる為に殊更に豪放の遊びをなし、或は人を京阪は固より長崎まで遣し、天下の珍器珍什を巨資を抛つて手に入れ、盛んに風流を事とした。又之に伴つて美術工芸の発達を奨励された。描金の五十嵐道甫、椎原市大夫、彫金の後藤顕乗、同程乗、絵画では狩野探幽、久隅守景が聘されたのも此の時である。其他刀工、工匠等多くは三代利常侯の奨励によつて著しく発達した。又一面から見れば、是等諸工芸は当時の茶事によつて大いに進歩を遂げたと云ひ得るであらう。
宗和流が吾が加賀藩に入つたのは、寛永二年利常侯が家督を相続されてより二十一年目、宗和流二代金森七之助が藩に召し抱えられた時に始まる。又此の時が加賀藩に広く茶道の興つた始めと云つてもよいであらう。始め利常侯は宗和の数奇不遇を深く憐み給ひ、高禄を以て召抱えようとされたが、宗和は固く之を辞して受けず、止むを得ず其子七之助を御召抱えに相成り、此処に於て七之助は金沢に在つて加賀藩に茶道宗和流をひろめ、父宗和は京都に在つて斯道の後見をなし、又種々の珍器珍什を選定移入したものと思はれる。
藩主利常侯はもとより長子光高侯(四代)、富山に支藩された次男利次侯、大聖寺に支藩された三男利治侯等も皆七之助に就いて宗和流茶事を習得された。今日此等の諸侯の作られた花入、茶杓等多く残つて居り、又その作風等にも一貫した流儀の表れがあり、之等に依つても如何に其当時流儀茶道が広く盛んに行はれたか、又斯道の研究が熱心に行はれたかをうかがう事が出来る。各藩主が斯くの如くであつたから重臣藩士も亦争つて宗和流を学んだ。尤も他の流儀は未だ加賀藩には入つて居なかつた。
裏千家仙叟宗室居士の加州侯に禄仕されたのは五代綱紀侯の時であり、又初代大樋長左エ門も同時に聘されて居る。之は寛文六年に当り金森七之助招聘の寛永二年より数えると其間四十二年を経てゐる。この間は四代光高侯の在世期で光高侯は正保二年三十一才を以て江戸屋敷にて逝去されて居るからこの前後四十年間は藩中に於て宗和流の最も盛んに行はれた時期であつた。当時は茶事は武家のみに限られて居た如く五代綱紀侯(松雲侯)、六代吉徳侯の時代も尚相当盛んに行はれ吉徳侯の手作り茶杓等も今日よく見受けられるが矢張り流儀の作風がうかがわれる。
五代綱紀侯の世となり工芸百般を奨励され此処に於て茶道も宗和流と千家と両立され益々盛んに行はれ、此頃より士家はもとより町家に至るまで一般に普及奨励されたため、一層その隆昌を見たものと思はれる。斯くて裏千家は仙叟一代を以て京都に復帰され、宗和流は金森家と共に代々金沢に流祖を在し益々普及された。
宗和流歴代
前記の如く金森出雲守可重は茶道を千道安に受け、後の宗和の重近は飛騨に在った頃は其父可重の教へを受けたから此時代は千家流と見るを至当とする。
流祖 金森宗和
飛騨守重近は可重の嫡子として天正十八年飛騨高山城に於て出生し金森家を嗣ぐ可きを、其異母弟に次男重頼あり、其の相続に関し父母の間に円満を欠き、その臣又抵悟相争ふを見重近は為す可らざるを悟り独り潜かに逃れて一時山代国宇治に身を匿した。依って高山に於ては慶長十九年異母弟重頼は家を嗣ぎその後九年元和九年に父可重が逝去した。
重近は宇治に於て茶師宮林源造方に寄遇したと伝えられ其故か同家には宗和自作の門も残ってゐるとの事である。又同家の茶銘「祝の城」「明石」の二種は侯の銘と伝えられ又其頃茶の木の古株を以て人形を刻まれたものが今も尚宇治に於て作る茶の木人形の創めとも伝えられてゐる。
其後重近は志を立て京都に移り法体となり宗和と号し、公卿門跡の間に出入し専ら茶道に親しみ、その神髄を得て宗和流を創設した。其後加賀藩主前田利常侯は深く宗和の数奇不遇を憐み給ひ、高禄を以て召抱へようとしたが公は固く辞して受けなかった。依って利常侯は宗和の意を受け寛永二年其子七之助を召抱え初め千五百石を禄し其より十五年を経て五百石を加増されは二千石となつた。 斯うして七之助は藩主の殊遇を蒙り茶道に精進し、父宗和の衣鉢を襲ぎ金沢にあつて茶道宗和流の興隆に尽し、宗和は京都に在って斯道を後見した。藩主藩士よりの御用の器物は京都に於てとゝのへ名工野々村仁清の如きは専ら宗和の助言により名品を作つたものと伝へられてゐる。
斯くて宗和は一生浪人として明暦二年十二月十六日六十七才を以て世を去った。
甲堅院殿徳英宗和居士
京都上京区上寺町天寧寺に葬る。尚同墓所に宗和の室(遠藤但馬守の女)の墓も並んでゐる。
甲珠院殿月渚慈円大姉
慶安四年十一月三日歿
宗和門人
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慈胤法親王
後陽成帝皇子二品天台座主。常修院梶井宮と云ふ。元禄十二年十二月二日薨ず。八十三才。 -
近衛家煕
応円満院基煕公男。摂政関白太政大臣准三后。予楽院と称す。号吾楽軒昭々堂主人、物外楼、墨汝、虚舟子、元文元年十月二日薨去、七十才。 -
釈策伝
京都誓願寺中竹林院に住す、安楽庵と号す、寛永十九年正月八日寂、八十九才。 -
小河左馬之助
祐滋、土佐守の長子、伊予今治城主七万石を領す。兼々庵と号す。 -
小出大隈守
泉州陶器郷壱万石、三尹と号す。 -
桑山重長
従五位左近大夫洞雲と号し祝髪し宗仙と称す、寛永九年七月卒七十才。 -
古筆了栄
古筆二代 -
古筆了祐
三代、了栄八男初八兵衛、名は定香、貞享八年四月三十日歿、四十才。
二代 金森七之助方氏
母は遠藤但馬守の娘にて祖父但馬の推挙に依って召出され前述の如く利常侯の殊遇を得て二千石を領し御馬廻組を勤め了空と号した。此時紋所を二重亀甲に三つ巴と改められたと云ひ伝へられてゐる。
寛文四年四月三日 歿 五十五歳
本浄院心庵了空居士
金沢三ツ構高巖寺に葬る
七之助了空門人
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本多安房守
号素立軒、五万石 -
前田駿河守
一万石、初め対馬守、源随と号す。 -
奥村因幡
後壱岐 -
横山外記
三千五百石 -
菊池大学
号是空 十六郎 -
菊池十六郎
号秋(涯の右側) 三千二百石 弥八郎 -
多賀左近
五千石 -
横山隼人
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横山右近
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奥村又十郎
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江守半兵衛
号可入
三代 金森平蔵方一
万治二年出生。六才の時寛文四年幼にして父の遺知の内七百石を賜り、延宝二年残知の内千石を賜り合せて千七百石を領す。
天和元年六月十八日歿 二十三才
四代 金森内匠信近
最も幼少(三才)なる為め始め五百石を賜り元禄三年千二百石を賜り合せて千七百石を領し品々役儀を勤め御小姓頭となる。
享保十二年六月二十七日歿 四十九才
五代 金森多門知近
享保十二年千七百石を賜り品々役儀を勤め御馬廻り頭となる。
明和四年四月十一日歿
六代 金森猪之助成章
実は奥村主税の四男にて金森家の養子となり明和四年千七百石を賜り品々役儀を勤め定番御馬廻り御番頭となる。
寛政十一年五月歿 五十五才
七代 金森量之助知直
是も奥村主税の五男にして六代猪之助成章歿後養子となつた。寛政十一年千七百石を賜はつたが後文政四年六月故あつて自害された。その為め家族は一時奥村主税方に引取られ金森家は一時断絶の止むなきに至つた。
量之助の実子吉左衛門信之は初め八十郎と云ひ後内匠と改め父の遺知の内五百石を賜り御馬廻りに取り立てられ金森家を再興す。又後割場奉行をも勤めた。
此処に於て金森家の一時断絶に際し茶道宗家第八世の継承に関し門人門派の人々寄り寄り示談協議の結果、茶道は只徒らに家系たる子々孫々に継ぐ事は多害利少の事多く自然流儀の衰微を来す傾き無きに非ずとし、茲に斯道に通達し学識人格兼備の人を選択し、以て宗家を継承するに如かずとの衆議一決し、直にその人選に入り多賀宗乗を推し茲に第八世の継承を見るに至つた。
八代 多賀直昌
多賀直昌は中原宗乗と号し金沢胡桃町に住し食禄五千石を賜つてゐた。宗和流八世を継承するに及び、直に公務を退き、庭内に別荘を構へて隠居し専ら茶法を嗜み一意専心苦心の結果拾玉抄七巻、其他の秘書数巻を編輯せられた。流儀に於ては氏を流儀中興の祖として居る。
文政十二年六月二日歿 三十八才
謚 武昌院一簇天貫居士
野田山大乗寺境内に葬る。
九代 九里歩正令
黙々と号し多賀直昌の高弟にて禄二千石を領し新堅町より山田屋小路にかけて其邸地があつた。
慶応元年八月歿 野田山墓地に葬る。
青原院一蓬正令居士
十代 九里歩
黙々正令の嫡子にて止少庵一蓬と号す。維新前後に際会し百政改革の折柄なる為め余り振はず、僅かにその俤を止めて居たに過ぎず、後居を百姓町に移し其後犀川の傍に移し其自邸で逝去した。
明治二十五年四月二十三日歿 七十三才
止少院一蓬居士
十一代 安達弘通
司少庵宗香と号し又時雨亭の名がある。越中国礪波郡山見郷金屋岩黒村の出生で、壮年金沢に出で神宮教金沢支部を設置し自ら神事に仕へ香林坊に社殿を造営した。現在の神宮奉斎会の前身である。茶道は九里歩一蓬に師事しその奥儀を極め宗家を継ぎ長町河岸に於て専ら茶事に親しみ幾多の門下を教養し、益々隆昌を極めた。明治維新の後を受けさしも盛であつた茶道も一時廃退の余儀なきに至り我が宗和流も時世と共に将に絶滅に瀕せんとしたのを偶々宗香翁あつて流風の維持に努力せられ、社会文化の発展と共に愈々復古の機運に際会したのは全く氏の賜ものであった。
昭和三年九月二十二日歿 野田山墓地に葬る
十二代 辰川宗弘
本名鉱作、此松庵と号し中川除町に住す。書画を能くし画は中浜松香に師事して芳翠の号あり。其他温斎、玉泉堂とも称し加賀友禅界の巨匠なり。十一代宗香歿後同門の支持を得宗香所持の茶室を自邸に移し十二世を継ぐ。晩年茶器の手造りをなし又特に能登方面の指導に勉め流儀の発展に専念した。
法名 釈宗弘 昭和二十年七月十五日歿 六十七才
十三代 辰村宗興
本名米吉、吟風庵と号し亀田是庵の家に住す。十三世継承に当り広く宗和流の文献を調べ「茶道宗和流」を編修し、「拾玉集」を上梓して一般に配布するなど流儀の為につくした。
法名 開眼院釈吉敬 昭和二十九年十月十八日歿
上述の如く吾が宗和流は初代宗和侯、二代七之助師の時に当り加賀藩三代の藩主前田利常公に依って当地に移入されてより此処に三百数十年連綿として継承され今日に及んでゐる事は流儀として誠に悦ばしい。今般十四世継承に当り宗興の手になる「茶道宗和流」を聊か補訂して同好の御参考とする次第である。
金森氏系図
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長近(元祖)
飛騨国高山城主近江国金森村出身、従四位下始五郎八可近、後出雲守剃髪而兵部卿素玄法印ト云、慶長十二年八月十二日卒年八十四才金龍院要仲素玄大居士紫野金龍院ニ葬ル -
長則
長近長子称忠次郎信長ニ随ヒ最期之時打死 -
長光
長近二子称五郎八家康ニ随ヒ美濃上有知三百石ヲ領ス、慶長六年十月六日卒 -
可重(二代)
実濃州長尾将監ノ子也為長近養子、従五位下出雲守元和元年閏六月三日卒、年五十八徳応院雲峯閑公大禅定門、高山素玄寺ニ葬ル -
重近
可重長子従五位下飛騨守有故而家督不継、住京師号宗和創宗和流、又慈胤法親王ニ伝ヘテ御所流ト云 -
重頼(三代)
可重三子従五位下出雲守、慶安三年十月七日卒 -
頼直(四代)
重頼長子従五位下長門守、寛文五年七月十八日卒 -
頼業(五代)
頼直長子従五位下飛騨守、寛文十一年十二月廿八日卒 -
頼時(頼旨トモ)(六代)
頼業長子従五位下出雲守元禄五年七月二十八日羽州上ノ山ヲ領ス
同十年濃州郡上郡八幡ヘ国替元文元年五月廿三日卒 -
可寛(七代)
頼時ノ長子長門守
宗和流系譜
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金森重近(流祖)
従五位下飛騨守茶道ヲ祖父兵部卿法印並ニ父可重ニ受ク後古田織部ノ門ニ入住京師号宗和明暦二年十二月十六日卒、六十七、甲堅院徳英宗和居士、室遠藤但馬守ノ女、慶安四年十一月三日歿、甲珠院月渚慈円大姉共ニ京都天寧寺ニ葬ル -
金森方氏(二世)
重近ノ長子七之助加州藩前田家ニ仕ヘ父宗和ノ茶道ヲ伝ヘ住金沢号了空、寛文四年四月三日歿、年五十五本浄院心菴了空居士金沢高巌寺ニ葬ル -
金森方一(三世)
方氏の長子平蔵天和元年六月十八日歿、二十三
常信院殿直巌余正居士 -
金森信近(四世)
方一ノ長子内匠享保十二年六月廿七日歿、四十九
梁松院殿信嶽紹真居士 -
金森知近(五世)
信近ノ長子多門明和四年四月十一日歿、六十六才
本立院殿道貫是生居士 -
金森成章(六世)
実奥村主税四子也知近ノ為養子猪之助寛政十一年五月歿、五十五、成性院殿仁岳道義居士 -
金森知直(七世)
実成章ノ弟也量之助文化四年六月有故而自害相果一時継絶、自害届千秋次郎吉高巌寺ニアリ、心空院殿通玄宗徹居士 -
金森信之
知直ノ長子内匠後吉左エ門父ノ遺知千七百石之内五百石ヲ賜リ文政五年二月金森家再興、見性院大悟宗安居士、慶応二年三月廿二日歿 -
金森熊太郎(在東京)
死亡 明治十四年以下不明 -
信章
明治十八年一月廿九日東京ニ死亡、高林寺ニ埋葬
文章院英岳元俊居士 -
奥村尚之
同藩始主税後源左エ門金森家断絶故ニ家財等不残尚之方ヘ引取宗和流茶道一時預ル -
多賀直昌(八世)
同藩始左近後予一右エ門号宗乗宗和流一統ヨリ推サレ従尚之相伝続八世文政十二年六月二日歿、三十八武昌院一族天貫居士野田山大乗寺ニ葬ル -
九里歩正令(九世)
多賀直昌ノ高弟禄二千石号黙々慶応元年八月歿、野田山墓地ニ葬ル青原院一蓬正令居士 -
九里歩(十世)
黙々正令ノ長子止少庵一蓬ト号ス明治二十五年四月二十二日歿、七十三、止少院一蓬居士 -
安達弘通(十一世)
司少庵宗香ト号昭和三年九月二十二日歿、七十五、野田山墓地ニ葬ル -
辰川鉱作(十二世)
此松庵宗弘ト号又芳翠、温齊、玉泉堂昭和二十年七月十五日歿、六十七 -
辰村米吉(十三世)
吟風庵宗興ト号ス
昭和二十九年十月十八日歿、五十七
野田山墓地ニ葬ル -
辰村宗栄(十四世)
当代、昭和三十三年流門ニ推サレテ十四世ヲ継グ
昭和三十三年二月二十一日印刷
昭和三十三年二月二十五日発行
発行者 辰村宗栄