宗和好の茶道具
宗和の祖父、金森法印長近は利休に茶を学んだと言われ、利休丸壷などの名物茶道具を所持していました。
宗和の父、可重は「古田織部の時代は金森出雲殿尤目きゝの功者たり」と評されていたようです。
堺で肩衝茶入を買って焼き直して評判になった話や、宇治で右馬尉という禰宜が持つ茶入を一見してその茶の湯の巧者を見抜いた話、天目の台を買う時に黒塗は唐物を見分けにくいから朱塗を買った方が良いと言った話等、紹介されています。
また、藤堂高虎の伏見での茶会に可重が招かれた際に、佐伯肩衝が床に飾ってあり、これを取り入れて別の瀬戸茶入で点前をした作意が素晴らしかった、という話も見られます。
これらの話からも、可重が目利きとして評価されていたことが窺えます。
こうした祖父や父の影響もあってか、宗和も茶道具について目利きであったようです。予楽院の『槐記』に、当時有名だった八角形の釜の蓋があり、宗和が弟子達に「この蓋にあった釜をデザインしてみなさい」と言ったところ、皆が八角形の釜をデザインした。しかし、宗和は八角形が重なるのは良くないとして、釜も鐶付も角のない丸いデザインの釜を作った、という話が残されています。
御釜、此釜ニハ由來アル由仰ラル、舊キモノゝ上作モノナリ、コレヲ宗和ガ所持ニテ、此蓋ニテ、釜ヲイサセタシ、如何様ノ形チシカルベカランヤトテ名アル弟子衆ニヲゝセテ、切形ヲサセラレシガ、イヅレモ蓋ノ形ガ、八角ナルニ付テ、釜ニモソノ意ヲトリテセラレシヲ、宗和ノ物ズキニテ、ナニトシテモ八角トサシアウハ悪カラントテ、何トモシレヌ形ノ、終ニナキ形ニセラレタリ、環付モ形ノシレヌモノニセラレタルガ、宗和ノ好也ト、イカイ秘蔵ニテアリシヲ、寺田無禪ニヤラレテ、無禪ヨリ、御所エ上ラレシト也、此蓋ハ殊ノ外名高キモノ也、其頃細川ニ八卦ノ蓋、金森ニハ八角ノ蓋トテ天下ニタレシラヌモノナカリシト也、三寸バカリアルベキカ、唐金ニテ八角ノカド、スコシシノギアリテ、甲ノ内ヲキ、言ンカタナシ、釜ノ口ニテ、少シコシキアリ一分バカリナリ、(『槐記』、享保十四年正月七日)
宗和が好んだ茶道具として最も有名なのは、野々村仁清の茶陶でしょう。宗和は、仁和寺に窯を営んだ仁清に、切型を与える等して好みの茶道具を焼かせ、「御室焼」として自らの茶会で用い、公家や大名たちに広めていきました。
また、飛騨高山の名産であり、透漆により木目の美しさを活かした「春慶塗」も宗和が始めたと言われています。その後、椀や食器等にも「宗和形」「宗和膳」と呼ばれるものが残されています。
宗和は好みの茶道具を作らせる一方で、自ら竹を切って花入や茶杓を作っています。
その刀法に慣れていたことは、宗和が一條恵観に台子の点前を所望された際に台子に向かって柄杓を取った宗和が、次の間に立って柄杓の柄を五分ほど短く切り詰めて点前をした、という逸話からも読み取れます。
また、宇治の茶の木人形は、宗和が宇治に滞在中に茶の木の切り株を切って作ったのが始まりとも言われています。
宗和は竹を切って花入を作った他に、普請場にあった木の切れ端を花入れに仕立てたり、瓢の花入を作ったりもしました。
木片を花入に仕立てるというのは類例が少なく、宗和が普請場の木片を用いて作った「法師」、真敬法親王が奈良晒(さらし)をつくのに使った杵を用いて作った「杵」、予楽院が古い雨樋を用いて作った「雨後月」の三つが有名であり、自然によって古びた木片を見出して花入にするという美意識は、宗和の茶を好んだ公家茶道の独特の美意識だったのでしょう。
こうした公家の間での茶道具の流行は、予楽院の茶杓箪笥を見ても、宗和形の茶杓から独特の茶杓を好んでいった変遷が見て取れます。
このような宗和が好んだ茶道具には、好みの次第を誂えました。
甲が高く盛られた二方桟の蓋に、薄い相材の身、鹿皮の紐を付けた箱は「宗和箱」と呼ばれます。
茶入に好みの一文字蓋やすくい蓋を誂え、仕覆を添え、また、水指にも好みの蓋を誂えたりしました。
掛軸の表具にも好みの裂を用いており、白地鶴丸紋銀欄や白地七曜星紋銀欄、白地宝尽草花紋金欄、紫地角龍紋印金等を用いた表具は宮中にも好まれました。
文献があまり残されておらず、金森宗和については謎が多い中、現代に残された宗和好と言われる数々の道具から、宗和の茶風を窺い知ることができます。