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歴代詳細

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初代 金森宗和 重近

天正12(1584)年〜明暦2(1656)年12月16日 73歳

二代 金森七之助 方氏 了
 慶長15(1610)年〜寛文4(1664)年4月3日 55歳

 金森宗和の長男。母は遠藤但馬守の娘。前田利常の招きにより加賀前田家に仕官し、二千石で御馬廻組を務めました。号は了空。寛文4年4月3日歿、享年55歳。法名は本浄院心庵了空居士。金沢三ツ構高巖寺に眠る。

三代 金森平蔵 方一
 万治2(1659)年〜天和元(1681)年6月18日 23歳

 万治2年生れ。宗和流三代を継ぐ。寛文4年に幼くして父を亡くし、6歳で父の知行の内七百石を賜る。後に延宝2年、加賀前田家より残りの千石を賜り、合わせて千七百石を領す。後、御小姓頭となる。天和元年6月18日没。享年23歳。

四代 金森内匠 信近
 延宝7(1679)年〜享保12(1727)年6月27日 49歳

 3歳の時に幼くして五百石を継ぎ、宗和流四代となる。元禄3年、加賀前田家より残りの千二百石を賜り、合わせて千七百石を領す。様々な役儀を務め、御小姓頭となる。享保12年6月27日没。享年49歳。

五代 金森多門 知近
 元禄15(1702)年〜明和4(1767)年4月11日 66歳

 宗和流五代。享保12年、加賀前田家より千七百石を賜り、様々な役儀を務め、御馬廻頭となる。明和4年4月11日没。享年66歳。

六代 金森猪之助 成章
 延享2(1745)年〜寛政11(1799)年5月 55歳

 宗和流六代。奥村主税の四男として生まれ、金森家の養子となる。明和4年、加賀前田家より千七百石を賜り、様々な役儀を務め、定番御馬廻御番頭となる。寛政11年5月没。享年55歳。

七代 金森量之助 知直
 ?〜文化4(1807)年6月自害 ?歳

 宗和流七代。奥村主税の五男として生まれ、六代猪之助の歿後、金森家の養子となって七代を継ぐ。寛政11年、加賀前田家より千七百石を賜ったが、文化4年6月に故あって自害した。家族は一時奥村主税に引き取られ、金森家は断絶となった。
 量之助の実子、吉左衛門信之は初め八十郎と言ったが、後に内匠と改めて父の遺知の内五百石を賜り、御馬廻に取り立てられて金森家を再興することとなった。
 金森家が一時断絶となったため、宗和流八代の継承について門人が集まって協議したところ、世襲によらず直にその人物の才覚によって家元を継承するべきとの結論に至り、多賀宗乗を推して家元が継承された。

八代 多賀直昌 中原宗乗
 寛政4(1792)年〜文政12(1829)年6月2日 38歳

 多賀直昌は中原宗乗と号し、金沢胡桃町に居を構え、加賀前田家より五千石を賜っていた。七代量之助自害により金森家が断絶したため、世襲によらず家元を継承することとなり、門人一同の推挙により家元を継承した。宗和流八代を継承するに及び、公務から退いて邸内に別荘を構えて隠居。専ら茶の湯に専念し、『拾玉抄』7巻、その他の秘伝書を編纂した。宗和流に於いては多賀直昌を流儀の中興の祖と位置付けている。文政12年6月2日歿、享年38歳。法名は武昌院一簇天貫居士。野田山大乗寺境内に眠る。

九代 九里歩 正令 黙々
 ?〜慶應元(1865)年8月 ?歳

 宗和流九代。黙々と号し、加賀前田家より二千石を領していた。多賀直昌の高弟で、新堅町より山田屋小路にかけて邸宅を構えていた。慶應元年8月歿。法名は青原院一蓬正令居士。野田山墓地に眠る。

十代 九里歩 正訓 止少庵 一蓬
 文政3(1820)年〜明治25(1892)年4月23日 73歳

 宗和流十代。九里歩正令の嫡子で止少庵一蓬と号した。明治維新の折であったため茶道は余り振わず、後居を百姓町に移し、その後犀川の傍に移り、自宅にて逝去した。明治25年4月23日歿、享年73歳。法名は止少院一蓬居士。

十一代 安達弘通 司少庵 宗香 時雨亭
 嘉永5(1852)年〜昭和3年(1928)9月22日 75歳

 宗和流十一代。司少庵宗香と号し、時雨亭の名もある。越中国礪波郡山見郷金屋岩黒村の出生で、壮年に金沢に出て神宮教金沢支部を設置し、自ら神事に仕えて香林坊に社殿を造営した。現在の神宮奉斎会の前身である。茶道は九里歩一蓬に師事して宗家を継ぎ、長町河岸に於いて専ら茶事に親しみ、幾多の門下を教養し、益々隆盛を極めた。明治維新以後、茶道も廃退の時期であったが、宗香翁の尽力により流儀の再起を得た。昭和3年9月22日歿、享年75歳。野田山墓地に眠る。

十二代 辰川宗弘 鉱作 此松庵
 明治12(1879)年〜昭和20(1945)年7月15日 67歳

 宗和流十二代。本名鉱作、此松庵と号し、中川除町に住す。書画を能くし、画は中浜松香に師事して芳翠の号あり。その他、温斎、玉泉堂とも称し加賀友禅界の巨匠であった。十一代宗香歿後、同門の支持を得て宗香所持の茶室を自邸に移し、十二代を継いだ。晩年、手造りの茶器を能くし、また、特に能登方面の指導に勉め、流儀の発展に尽力した。昭和20年7月15日歿、享年67歳。

十三代 辰村宗興 米吉 豊治 吟風庵
 明治31(1898)年〜昭和29(1954)年10年18日 57歳

 宗和流十三代。本名米吉、吟風庵と号し、亀田是庵の家に住した。十三代継承にあたり、広く宗和流の文献を調べ『茶道宗和流』を編集し、『拾玉集』を上梓して一般に配布するなど、流儀のために尽くした。昭和29年10月18日歿、享年57歳。法名は開眼院釈吉敬。

十四代 辰村宗栄 椎陰軒
 明治40(1907)年〜昭和38(1963)年8月11日 57歳

 宗和流十四代。十三代宗興に嫁ぎ、宗興の歿後、昭和33年に流門に推されて十四代を継ぐ。畠山即翁との親交を経て東京に移り、流儀の発展に尽力した。昭和38年8月11日没、享年57歳。

十五代 辰村宗恍 米吉 吟風庵
 ?〜? ?歳

 宗和流十五代。本名米吉。東京に住す。

十六代 堀宗友 青々庵
 ?〜平成14(2002)年11月2日 ?歳

 宗和流十五代宗恍が家業が多忙であったため宗和流の後見を務め、宗恍の歿後、十六代を継ぐ。平成十四年十一月二日歿。

十七代 増田宗蒔 瑞枝庵
 昭和20(1945)年7月15日〜

 堀宗友没後、十七代を継ぐ。金森宗和三百五十年忌茶会を主催する。平成二十七年一月代を譲る。

十八代 宇田川宗光 寒鴉齋 凍玉軒 一枝窓
 昭和49(1974)年12月20日〜

​ 宗和流当代。十六代堀宗友に茶を学び、十七代増田宗蒔より代を譲られて十八代を継ぐ。大徳寺真珠菴二十七世住職山田宗正に得度し、寒鴉齋の号を授かる。

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